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「小さな助け合いの物語賞」受賞作品
第16回 ハートウォーミング賞作品・入選者
親切未満の親切
沖野 美代子(京都府)
朝七時三十分「よいしょ」と胸の内で掛け声を掛ける。手摺に掴まりバスに乗り込む。先に乗り込んだ高校生の少年が右と左を見る。そして二段の階段を上がり右奥へ入って行く。私は左を見る。ひとつ空いている座席を見て「よかった」と胸の中で呟く。
両足の変形性膝関節症と脊柱管狭窄症を抱える私には、三十分に満たない道のりであっても、立ち続けることはとても辛い。
とにかく座わりたい。座われることはとても有り難い。
今日もまたあの少年が席を譲ってくれた。「ありがとう」私は心の中でお礼を言う。少年は後から私が乗ることを知っている。だから段差のない車両の、たった一つしかない空席を譲ってくれている。
何も言わない。態度にも表わさない。でも私は知っている。少年が席を譲ってくれていることを。
私が乗るバスは通勤通学の人が多い。休みの日やテスト期間などで混み具合が変わる。少年の譲る席もないほど混み合う時も度々ある。だが二つ先の停留所で、決まって降りる人のあることに私は気付いた。座わる席のない時には、その人の前に立つようにした。
ふた停留所。頑満すれば座われる。私は座わりたい。
でもある時分かった。あの少年は空席のない時には、わざわざ段差のある右側の車両に行かない。そして先に入った少年は、その降りる人の前に立つ。そして私がその場に近づくと、さりげなく立ち位置を少しずらす。表情も変えずその場を譲ってくれている。「どうぞ」と声を掛けるわけでも、会釈をするわけでもない。
またこのバスは、ある高齢者施設の前を通る。この停留所からは高齢の方が乗車する。その乗り込む人は、バスの中から見える。その方達が乗り込んで来る前に、素知らぬ振りをして席を立つ少年少女がある。席を空けましたよというような態度はどこにもない。知らん振りをして友人達とお喋りをしている。空席に座った人も、乗り込む前にその様な心使いがあったことを知らない。
スマホから顔を上げて慌てて席を譲る少年少女もある。でも彼等は譲りながら、視線はスマホの画面を見ている。
皆、知らない振りをして親切をしている。
親切という言葉を使えない程の親切。
私はそんな親切未満の親切が詰まったバスに乗って、今日も職場へ向かう。
七十七歳の私の仕事は、温かな空気に包まれたバスの中から始まる。


