小さな助け合いの物語賞

入選(5編)

ご近所力、万歳!

大胡田 若葉

あの日、私は仕事で高田馬場のとあるオフィスにいた。打ち合わせの最中、突然これまで体験したことがないような激しい揺れに、同席していた仕事仲間はあわてて会議室のデスクの下にもぐりこんだ。

私はちょうど帰宅時間であろう二人の娘の安否が気になって、瞬間的に携帯電話を手にしていた。自宅につながりはするものの、聞こえてくるのは冷静沈着な留守番電話の声だけ。娘たちはまだ帰っていないのだ。

どうしよう。帰宅途中に被災して怪我でもしているのではないだろうか。それとも、まさか・・・・・・。最悪の事態が頭をよぎる。

揺れが収まってからしばらくは、私たちは打ち合わせそっちのけでテレビの映像に釘付けになった。信じられない速さで津波が田畑や家、車を飲みこんでいく。「逃げて、逃げて!」。いくら叫んでも、その声は画面の向こうには届かない。

私の携帯が鳴った。上の娘だ。下の娘はまだ帰っていない。とりあえず自宅近辺に大きな被害はないと聞いて、ほっと安堵する。できるだけ急いで帰ると伝えて電話を切った。

しかし、私の見通しは甘かった。電車は全て運転見合わせとなり、交通機関はマヒした。幸運にも仕事仲間が車で自宅まで送ってくれることになったが、都内はどこも大渋滞。携帯電話も不通になったまま。遅々として進まない車内に時だけがどんどん流れていく。

と、とつぜんメール着信音が響く。つながった!あわてて携帯を開くと、そこには同じマンションや近所のママ友から三十件あまりもメールが届いていた。誰もが二人の娘が無事なこと、二人ともしっかりしていて心配がいらないことなどを知らせてくれている。いつ不通になるともしれないので、あわててこちらの状況を返信する。その直後、再び携帯は通話不能になり頑固に沈黙を守り始めた。

高田馬場を十六時に出て、横浜の自宅に着いたのは二四時ちょうど。暗いリビングに入ると、テーブルの上にすでに眠りに就いた娘たちの手紙があった。そこにはガスが止まったのを同じマンションの住人が直しにきてくれたこと、ご近所さんが入れ替わり立ち替わり娘たちの様子を見にきてくれたこと、さらにはお握りやドーナッツなど、様々なものを差し入れしてくれたことなどが書かれていた。

私はこの時ほどご近所力のありがたさが身に染みたことはない。普段あまり付き合いのない人まで娘たちを支えてくれたのだ。こんなすばらしいご近所さんに囲まれて暮らしていける私たち一家はなんと幸せなことだろう。

後日、娘たちと話し合い、この感謝の気持ちは被災地への支援という形で返していこうと決めた。そして私たちも必ずご近所の力になろうと誓いあった。

私も娘たちもお世話になった皆さんへの感謝の気持ちは決して忘れないと思う。

ご近所さんに感謝!

そして、ご近所力、万歳!

回覧板とお隣さん

田上 直志

「ねえ、この子達に、しっかり言って聞かせてよ」 仕事から帰るなり妻が私に愚痴ってきた。

「あっという間だったんだから」

三歳と五歳の息子達を連れて、西向かいのお隣さんに回覧板を渡しに行った際、

「あがって遊んでいく?」

と聞かれたらしい。すると二人は「おじゃまします」も何もなく、靴を脱ぎ捨て、競うように家の中にとび込んでしまったようだ。

引っ越して来てまだ日が浅かったということもあり、ご迷惑をかけてしまったのではと気が気でなかったというのだ。そこで妻は、『勝手に家に入らないように』とか、『もう少し行儀良くしなさい』という類の言葉を期待していたのかもしれないが、私の口から出た言葉は、予想外なものだった。

「すごいねぇ。二人だけで、おばちゃんちにあがって遊べたんだぁ」

この件で私が注意するどころか、誉めたこともあってか、それから隣近所に行くと、家の中にあがれるものなら、あがってやろうという気配が、息子達からひしひしと感じとれた。案の定、南向かいのお隣さん宅で、

「カブトムシを見る?」

と誘われ、子ども達だけで部屋にとび込んだ二人。長男が、こたつの上のお菓子を食べたり、二階の部屋を探検したりした事を得意になって話す。次男も負けずに、

「おばちゃんがね、ちょっと、ぼくのウンチゆるかったって」

と一人ではトイレの後始末が出来ないので助けてもらった事を、晩ご飯の時に嬉しそうに話す。五十近く歳が離れたおばちゃん達と家の中で息子達は一体どんな会話をして過ごしたのだろうか?
 

近年、少子化のために、子ども達の地域社会における対人関係の機会が減っているという。確かにうちの近所にも子どもは数えるほどだ。けれどもコミュニケーションの場が無くなった訳ではない。現に息子たちは、大人の私となんら変わりなく、いや、私以上に、『お隣さん』と近所付き合いをしているではないか。だから私は誉めてあげた。

「へーえ、『お尻を拭いて』って、おばちゃんにお願いできたの。えらいねぇ』
 

あれから二年。今では、子ども達だけで回覧板を渡しに行けるようになった。もちろん勝手に上がりこむこともなく、きちんと挨拶もしているようだ。また、南向かいのお隣さん宅に、お孫さんが遊びに来ているものならば、我が家の庭に誘って遊んであげている。教え込んで身につくものではない社会性が、いつの間にか育っているのだから親としては嬉しい限りである。ご指導してくれた先生は『回覧板』と『お隣さん』といったところだろうか。地域に助けられて、我が家は子育てをしているのだと実感せずにはいられない。

いつかの宿題

渡辺 ゆり

「ご飯を受け取っていない方いませんか?」

三月十一日。あの大きな揺れから四時間後のことだ。避難所となった体育館に、高校生ぐらいの少年の声が響いた。被害の状況もわからず、相次ぐ余震に誰もが不安を募らせていた。そんな中、てきぱきと動く少年たちの姿は一際目立っていた。彼らは、近くの児童養護施設で生活する少年たちだった。

去年、夫の転勤で仙台市へ引っ越してきた。見知らぬ土地に慣れようと、毎日外出して近所を散策した。道すがら、施設の子どもたちを何度か見かけたことはあった。しかし、付き合いはなく、挨拶もしたことがなかった。

あの日、夫は関西へ出張中で、一人で遅い昼食をとっていたところ被災した。とにかく命だけはと、近くの体育館へ駆け込んだ。

体育館へ着くと、入り口で少年から毛布を手渡された。その時は特に気にもせず、自分の場所を確保するのに精一杯だった。三百人しか収容できない体育館に、八百人近くが押し寄せた。震災後まもなくとあって、救援物資も届かない。非常時用の毛布は瞬く間になくなった。寒さと不安が全身を襲った。

「この先どうなってしまうのだろう」

その時だ。

「非常米ですが、お腹に入れて下さい」

「体力をつけて乗り切りましょう」

先ほどの少年たちが、自分たちの施設に保管されていた非常食を体育館へ運び、避難してきた人へ配り始めた。列になるよう指揮するのも彼らだった。

体育館の空気が変わったような気がした。それまでは、自分やその家族を優先に、いわば「自分さえ助かれば良い」という雰囲気だった。私もその一人だった。少年からおにぎりを受け取りながら、恥ずかしい気持ちになった。

一夜明け、私にも何か手伝えることはないかと、少年たちに声をかけた。

「この状況で、てきぱきと動いてえらいね」

「施設でいろいろな人に助けてもらっているので、恩返しです」

自分より、周りの人を気遣う心。ずっと忘れてしまっていた。施設で生活する少年たちは、幼い頃から辛く、苦しい経験を重ねてきているはずだ。だからこそ、人から受けた恩や優しさをしっかりと焼き付けているのかもしれない。混乱した状況でも、「今何をすべきか」瞬時に判断できた。心のどこかで、「施設の子=かわいそう」と考えていた自分が、また恥ずかしくなった。

大震災からもうすぐ半年を迎える。非常時への備えや節電など、社会全体の意識が変わってきた。

「情けは人の為ならず」

大切なことにも気付かされた。少年たちと自分を照らし合わせてみる。簡単なようで難しい。いつかの宿題のようだ。

助け合いリレー

武内 弘恵

基金箱を背中にくくり付けた電動車椅子が廊下を走っていく。後ろから見ると、募金箱がひとりでに移動しているようだ。それぐらい大きい募金箱。

三月十一日、東日本を襲った大震災。多くの被害、犠牲者を出し、今も尚、被災地で懸命に闘っている方々がいる。

私は兵庫県西宮市にある、重い障害をもちながらも地域生活を送る人達のサポートをしている施設で働いている。利用者と職員の関係というより、みんなが「仲間」という関係で毎日を生きている。仲間意識が自然と体にしみついている所だ。

そして、仙台にも仲間がいる。遠く離れているが、昔からの繋がりがある施設だ。今回の大震災で仙台の仲間も被害を受けた・・・。

十六年前に起きた、阪神・淡路大震災。私自身は経験していない為、大地震の恐怖や悲しみはどれだけ考えても分からない部分がある。が、ここの仲間は、それらを経験し、人よりも少しハンディキャップはあるが、手を取り助け合い、乗り越えてきた「強さ」と「優しさ」を持っている。

東日本大震災が起きて、真っ先に立ち上がったKさん。大きい募金箱を作り、自分の電動車椅子の背にくくり付け、走っている。よく見ると、募金箱にはメッセージが書かれている。パソコン打ちで、漢字の変換や言葉の綴りに多少の間違いはあるものの、それがまたKさんらしく、熱いものを感じる。

『仙台の仲間の気持ちが分かるのは僕たちしかいない。仲間のために僕たちが助けるんや!』そういう熱いメッセージが書かれてあった。

どこの募金箱よりも、Kさんの募金箱へのチャリン♪チャリン♪という音が鳴り響いていた。「Kさん待ってー!」って声があがるほど。このKさんの募金箱に集まったお金は全て、支援物資やよせ書きの旗と共に、仙台の仲間へ届けられた。そのよせ書きにKさんは、『泣くな!』と一言書いてあった。たった一言だったけれど、全てのおもいが込められているように思えた。

仙台へのルートがまだ整備できていない状態だった為、職員が西宮から福井の施設へ運搬し、福井の施設職員が仙台へ運搬するというリレー形式で届けられた。

Kさん含め、ここの仲間一人ひとりの、ただただ「助けたい!」「力になりたい!」・・・この一心で動いたプロジェクト。感じたのは、助け合いに特別な理由なんかないってこと。シンプルだけど力強い気持ちがあるってこと。遠く離れていても、その強い気持ちが繋いで、繋いで被災地まで届いたということ。

そしてこれからは、一瞬の力も大切だけど継続した力が必要になってくる。この大震災での恐怖や悲しみを風化させない為にも、伝えていくことも大切になっていく。

助け合いのリレーはまだまだ続く・・・。

ありふれた日常の風景の中で

鈴木 瑞季

「ピーポーピーポー」夜の十二時 救急車の音で目がさめた私は玄関から飛び出した。道路に出てみると既に母や近所の方が竹屋の方に向かってしゃべりながら歩き出していた。するとその竹屋の方から人が走って来た。「おばあちゃん大丈夫だって。救急車は間違い。」ああ、良かった。みんな笑顔になった。「竹屋」は学校の近くの駄菓子屋さんの名前だ。そこの主人のおばあちゃんは85歳で、一人暮らしをしている。町内の人はみんな救急車の音がするとまずこの「竹屋のおばあちゃん」の家に駆けつけるのだ。

「竹屋」は学校の隣にあった。紅白の帽子や名札などの学用品から、きなこ棒や飴など、駄菓子が売っていた。その中でも私は豚麺という、小さなカップラーメンが好きでよく友達と食べていた。でも、初めから友達がいたわけではない。

私は小学校3年生の時、引っ越してきた転校生だった。母は仕事があるので、夕方まで私は一人で過ごさなければならなかった。引っ込み思案で友達を誘う事も出来なかった私は、いつも百円玉を握りしめ竹屋に行く事が多かった。豚麺を買って「おばあちゃんお湯いれて。」と言うと「ちょっとしたら、他の子たちも来るから待ってなさい。みんなで一緒に食べたほうがおいしいよ。」と言い、「それより、このきなこ棒一本食べてごらん。」と言ってきなこ棒を勧めてくれた。

食べるとなんと当たり!「おばあちゃん当たりだ!」「じゃあ、一本おまけだ。他の子には内緒だよ。」おばあちゃんのおかげで私は少しも寂しくなかった。急な雷が鳴りだして帰れなくなった時に家まで送ってくれたり、傘を貸してもらったりした事も一度や二度ではない。私にとっては大事なおばあちゃんだった。でもそれは私だけではなく、他の子供たちや親も同じだったと思う。

小学校を卒業した私は、竹屋から遠のいた。おばあちゃんは足が悪くなりお店を他の人に譲り家に居るようになった。それから私は母に「これを持っていって」言われて、お総菜や野菜をおばあちゃんの家に持って行くようになった。しかし不思議な事におばあちゃんの家に行くと必ずそこには近所の人がいて我家と同じ事をしていた。「おばあちゃん、これうちで漬けたお漬物。ここに置いておくね。」といった具合だ。去年の特に暑かった夏も、3月の地震の時も、大雨が降り続いた時もみんないつもおばあちゃんを気にかけていた。いや本当の事を言うとお世話になった恩返しなどというのではなくただおばあちゃんの元気な顔が見たくて立ち寄ってしまうというのが正しいのかもしれない。

誰かがいつも誰かを大事に思って行動している。それが無意識に行われている日常の「助け合い」なのではないかと思う今日この頃だ。