小さな助け合いの物語賞

入選(5編)

助けられて感じたこと

山田 泰子

私が妊娠していた時のことです。大きなお腹で両手に荷物を抱えていると、小学生くらいの男の子がドアを押さえて待っていました。近くにお年寄りがいるのかと辺りを見渡しましたが私しかおらず、私の為に待っていてくれたのだと気付きました。「ありがとう」と言うと、その男の子は照れながらニッコリ笑って走って行きました。とてもさりげなく、その温かい気遣いは、ずっと私の心をニッコリさせました。

それから、生後三ヶ月の息子を抱っこしながら電車に乗っていた時のことです。まだ首も据わっていない息子と大きな鞄。私の降りる駅は終点だったので、周りのお客さんがいなくなってからゆっくり降りようと思っていたら、隣に座っていたお婆ちゃんが、「鞄を持ちましょうか?」と言ってくれました。杖をつくほどのお婆ちゃんだったので、すごく驚きました。それと同時に、私の方が助けなければならないくらいなのに、それが出来ないことを申し訳なく思いました。

私の中では、「お年寄りに席を譲る」だとか、「お年寄りが重い物を持っていたら手伝ってあげる」など、助ける対象をお年寄りばかりに目を向けてきたように思います。でも、私が体験した中で、「助ける」ということにルールはないのだ、と思いました。つまり、誰でも「助ける側」「助けられる側」になり得るということです。幼い息子を持つ今の私は、「助けられる側」に立つことが多いですが、その中でも出来る範囲で「助ける側」になれるよう心がけています。

直接自分が関わらなくても、「助け合い」に遭遇した時、私の心は軽くなり、その日に食べる食事もなんだか美味しく感じます。「助け合い」が当たり前のようにいろいろな所で起これば、とても幸せだと思います。

初体験

鈴木 みのり

私は、二十歳を過ぎて障害者手帳を持った。本来なら、もっと前に持つべきものだったかもしれないが、「皆と大差は無い」と思っていた自分には身分不相応なものと感じていた。

手帳に記された障害名は、心臓機能障害。その生まれた時から持っていた肥大性心筋症という病気は、私の人生に多くの贈り物を届けてくれた。時に喜びを、時に苦しみを味わったその贈り物を昇華して、私は今ここにいる。

そんな私の半生は、助けられることの方が圧倒的に多いものだったと言える。家族だけでなく、病院で、学校で、社会で、心ある人達にどれほど手を差し伸べられ助けられたことだろう。でも、その折々に私は自分が情けなく感じてならなかった。「自分は一生誰も助けられず救えず、人の手に縋って生きていくのか」と。

あれは、36歳の時だった。愛車を運転してスーパーへ買い物に行った時だ。いつものようにお惣菜コーナーを覗いていた時、背後に車椅子の女性が近づいて来た。身長140センチの私より低い位置にいる彼女には、奥行きもある陳列棚からバットでテイクアウトするのは難しいように私は思った。

「よろしかったら、お手伝いしましょうか?」

私はスルッと口に出し、彼女と目を合わせた。彼女は、「じゃ、えび天を2本お願いします」とサラリと言い、私はパックに取り分け輪ゴムをして手渡した。「ありがとう」とまたサラリと言ったのを、私は「いえ」と返して、その場を分かった。

帰り道、その場面を幾度も幾度も巻き戻しては再生させた私。最初のうちは、彼女の「ありがとう」が嬉しくて誇らしくて、ニタニタしていた。でもそのうち、「大丈夫か?」と不安になった。彼女を見下げた表情や言い方ではなかったか?などなど。挙句、そんな不安を払拭したくて、スーパーに立ち戻り彼女を探し見つけて「大丈夫でしたか?私」と尋ねてみようかとさえ思った。

それほどの初体験だったのだ。人助けとはおこがましいが、干支を3周してやっと「人らしく」なれたように思った私。

助け合い。親切。親を切ると書く。または、親の切ない思いともとれる。なんだか怖い。でも、親から切り離されても生きていける、出会う人の心。子への切実な親の思いと同じ、人の心。と解すると胸が熱くなる。彼女の親も私の親も、「この子に沢山の優しい出会いがありますように」と、育て送り出してくれたに違いない。その願いが巡り合わせたあの出会いだとしたら、「助けてやった」など恥ずかしい。人の心を紡ぎ合うための出会いだっただけなのだから。

左胸に機械を埋め込み、もう愛車は手離した。あのスーパーへも足遠くなったが、心の思い出は私を人らしく生かしてくれている。

助け合いの連携プレー

西川 福枝

現在八十三歳になる母を在宅で介護しながら一緒に暮らしています。母は七年前に脳卒中で倒れ、左半身麻痺という後遺症は残りましたが、意思の疎通もしっかり出来て、元気に生活しております。ここまで元気に回復できましたのは、母のご近所の方々の連携プレーがあったからこそでした。
平成十五年、四月のこと、私の携帯電話に母の友人から連絡が入りました。それは、一人暮らしをしていた母が倒れたことを知らせる電話でした。私は、仕事を終えて車に乗るところでした。私が動揺して事故を起こしては大変だからと、母の様子については多くを語らないところにも、思いやりの心を感じました。

聞けばその日、隣の奥さんが来られたのですが、チャイムを鳴らしても応答が無く、玄関には鍵が掛かってなかったようです。玄関先からの呼び掛けにも応答が無く、胸騒ぎがした奥さんは、部屋の中まで入ってくれたのです。そこで、目に飛び込んできたのは、台所で倒れている母だったのです。

「小山さん!小山さん!大丈夫?」との呼び掛けにかすかな反応があるのを確かめて救急車を呼び、娘である私へ知らせるよう、もう一人の母の友人に連絡してくれました。そして、間に合わない私に代わって隣のご主人様が救急車で病院まで同行して下さったのです。

前日の夜に元気な声を聞いていますし、部屋の様子から恐らくこの日に倒れたものと推測されます。発見されたのは、夕方ですが、倒れてどの位の時間が経過していたのか定かではありません。少なくともこの時、隣の奥さんが訪ねて来て下さらなかったら、命も助からなかったかもしれません。そして、よくぞ部屋に上がって下さいましたと、感謝の思いで一杯になりました。

東京都内で、最高齢の男性の方が、死亡していながら届けられていなかったという事件に端を発して、最近、高齢者の方の所在が不明になっていると、毎日のように報道されています。家族間での様々な事情があるとしても、あまりに人間関係が希薄になっている昨今、こうしてあかの他人である近所の方々が、母の為にこのように助け合いの連携プレーをして下さったことに心から感動しました。

プライバシーとか、個人情報だとか言っていたら、きりがありません。公的機関だけに任せるのも限界があるでしょう。せめて向こう三軒両隣で、家族構成や、住所など、最低限の情報を共有することが大切だと、母のこの一件を通して感じました。

幸い、母はそのような付き合いを、日頃からしていたので助けて頂くことが出来たのでしょう。私も、人付き合いが面倒だと避けないで、持ちつ持たれつ、助け合いの心で、人と関わっていきたいと思います。

「加勢する心」に育まれて

川添 芳身

「早く、加勢せにゃ」これは、何かにつけて言う親の口癖でした。貧しい農家に生まれた私は、この口癖を聞かされて育ちました。この「加勢する心」は私の家だけでなく集落全体に根付いていたように思います。

小学四年生の秋、集中豪雨で生家の入口が土砂で埋没した時のことです。父も兄達も出征していたので途方に暮れていると、直ぐ近所の人達が駆け付けて土砂を取り除いてくれました。母が「みんな、おおきに。お陰で助かったわ」と、握り飯とお茶を振舞いながら礼を述べると、口々に、「なんのなんの、お互いさまじゃ。困ったことがあれば喜んで加勢するぞ」と、さも当然のことのように言ったことが忘れられません。

私が育った集落には、用水や道路、屋根の葺き替えなどの普請に、近所の人達が声掛け合い、道具や材料まで持ち寄って作業するよき習わしがありました。また、農繁期になると、病人を抱える家や出征兵士の家に、誰言うとなく加勢して助け合っていました。

私も中学生になると、父や兄の代りに何回か作業に参加しました。集落の道普請に参加した時のことです。

集落最長老の平蔵じいさんと組んで作業しました。つるはしやスコップは力を溜めて使うこと、他の人より沢山汗を流すことなど教わりました。じいさんは私を労りながら、「うちの集落は、昔から加勢し合うのが習わしじゃ。少しずつでも力を出し合えば、大きな力になるからのう」と、煙管で旨そうに喫いながら、自信に満ちた顔で話してくれたことが、今も心の奥に焼き付いています。

私の集落は、二十戸余りの貧しい農家ばかりでしたが、古くから共存・共同の素晴らしい気風が醸成され、そこには温もりのある心豊かな結いの暮らしがありました。

日曜日には、朝早くから集落の小学生が集まって、鎮守様や共同墓地の清掃をしました。また、竹箒を作ったり薪を集めたりして小学校に寄贈する伝統もありました。上級生は箒の使い方や小刀の研ぎ方まで手解きする面倒みのよい存在で、下級生はそれらを見様見真似しながら成長していきました。

そのお陰で、戦後小学校の教師になってからも、「教え合い学習」を試みたり、「助け合い作業」を取り入れたりして、「加勢する心」「結いの心」の実践教育に専念することができました。

そのせいか、教え子達は還暦や古稀を過ぎても、心温まる深い絆のクラス会を続けています。招待される私が、教師冥利の至福に浸る時でもあります。そのたびに、「助け合い支え合って生きる」ことを教えてくれた親や集落の人々に感謝し、改めてその大切さをしみじみ心に刻むのです。

神様のシナリオ

入倉 文子

ある秋の夕方、交差点でカーラジオを聞きながら、信号が変わるのを待っていた。やがて青になり左折しようとしたが、車が動かない。エンスト?慌ててエンジンをかけ直したが、反応がない。故障だ。どうしよう。

帰宅時間帯の交差点。後には車、車、車。クラクションが激しく鳴り、車から降りてきた人にすごい形相で怒鳴られ・・・そんな場面が一瞬悩裏に浮かんだ。でも、かなり左に寄っていたのと、軽自動車だったのが幸いして、後続車は何事もなかったかのように次々に通り抜けていく。

泣きたい思いでいると「コツコツ」と助手席の窓をたたく音がする。五十代ぐらいの男の人が、自分の車をはじに寄せ、様子を見に来てくれたのだ。

「この少し先に修理工場がある。車を押してってあげるよ」

男性は、同乗していたもう一人の人と、スーツが汚れるのもいとわず、車を押して行ってくれた。聞けば、仕事先に向かう途中だという。申し訳なさと有り難さに胸が詰まった。工場の明かりが見えたときは心底ほっとした。

「せめてお名前だけでも」と言うと「気にしない。気にしない。もし困っている人を見かけたら、助けてやって」

お二人は、頭を下げる私に手を振り、夕闇の中を去っていった。その時、私のお腹には二人目の命が宿っていた。

家に帰り、食事の時に出来事の顛末を話した。珍しくじっと聞き入っていた四歳の息子が言った。

「ママ、神様が守ってくれたんだね」

その時、ふと、その二月ほど前の出来事を思い出した。


見通しのよい広い直線道路を車で走っていると、対向車線の歩道に人が倒れているのが見えた。初秋の明るい日差しの中に、立ち上がろうとして空しく足を蹴り上げ、杖を震わせる老人が見える。私は思わず車を止め、道路を横切った。駆け寄って手をさしのべたが拒まれた。

「余計なことをしないでくれ」

老人の目はそう語っていた。転倒したショックと何より自尊心が傷ついているのだろう。すこし待ち、もう一度手を差し出すと、おずおずとつかまってくれた。乾いた手だった。大柄なその方をなんとか立たせ、杖を握らせる。「車で家まで送る」と申し出たが、「すぐそこだから」と言う。半身麻痺のその方に父の姿が重なり、ゆっくり歩み去る姿をそっと見送った。

人は思いがけないところで出会い、支え合う。もしかしたら、それらはみな神様のシナリオなのかもしれない。幼い息子の言葉にそんなことを思った。

二十年以上前の忘れられない出来事である。